海外に目を向けよう
2020/11/04
スイス・チューリッヒの市街地
ここ数年来、『最近の若者は海外に関心を示さない、中国、韓国の米国への留学生数に比べ日本人留学生の比率はどんどん減っており、今後の日本の科学技術が心配だ』等々、若者の海外離れを嘆くマスコミ記事をよく見かけます。中国では『海亀』作戦と称して海外で博士号を取得した研究者の母国への『海帰』を国家が奨励するシステムについてもよく耳にします。そこで、いま三田学園で学んでいる生徒の皆さんに少しでも海外に関心を向けてもらいたいと思い、私の海外経験についてすこしお話させていただく事としました。要点は、海外に目を向けふれあう経験は極めて大切、日本を離れ長期の海外滞在を経験すると新しい道が見えてくるし、これまで歩んできた道を改めて考え直し、より充実したものにできる、の2点です。
さて、私が三田学園に通っていた昭和40年代は、1ドル360円と今から見れば非常に円安で海外旅行となると大変な時代でした。日曜朝にテレビで放映されていた『兼高かおる世界の旅』を見るのを楽しみにしていたぐらいで、海外への憧れをぼんやりと持ちながら育ちました。
私が海外と直接の関係をもったといえるのは、大学院博士課程に在籍していた時に宝塚ホテルで開催された国際シンポジウムへの参加が最初でした。博士論文では核二重共鳴法(NMRとNQRを組合せる方法)というラジオ波分光学の装置開発を進めており、核二重共鳴法の原理を開発されたHahn先生(University of California, Berkeley)の講演を聴講したことです。シンポジウムを主宰された当時大阪大学教授の千原秀昭先生が流暢な英語でオープニングの挨拶をされた光景をいまだによく覚えています。同じ研究分野の大先輩として海外の教授たちをもてなされている姿が、学生の目にはたいへんかっこよく映り、自分もあのようになりたいと強い刺激を受けました。
大学院を修了した後、日立製作所の研究所に勤めましたが、当時の多くの若者と同様にパックツアーを利用した新婚旅行がはじめての海外渡航の経験となりました。その後、現在に至るまで北米、欧州、北欧、アジアの各都市で開催される国際シンポジウムに参加する機会を数十回以上もちましたが、夫々の地域の文化・風土と人々の生活に触れることができたことは研究を深めるだけにはとどまらず、世界の多様性を肌で知る大変貴重な経験となりました。その中で、1985年4月から86年12月末までの約2年の間、日本のしがらみから離れ、チューリッヒのスイス連邦工科大学(ETH;Eidgenössische Technische Hochschule Zürich)で客員研究員として過ごした日々は、その後の人生の歩み方を大きく左右するものとなりました。ETHはこれまでノーベル賞受賞者を21名輩出し、Times Higher EducationによるWorld University Ranking2020で13位、欧州本土1番の大学であることからわかる通り、その研究力の高さは誠に素晴らしいものでした。毎週開かれるコロキウム(colloquium)では世界各国の一流研究者から最新の研究成果が発表されていました。その中で、ホフマン・ラ・ロッシュというスイスの製薬会社の研究者が発表していたComputational chemistry(計算機化学)によるDrug design(創薬)という研究が私の興味を掻き立てました。これまで実験一筋で研究を進めてきたものにとり、計算機シミュレーションにより実際の創薬が可能であるという発表にはまさに目から鱗といえる感覚を覚えたのです。これを契機に研究の方法を実験から計算機シミュレーションへと180度転換することを決意し、現在に至るまでシミュレーションを中心にした研究をすすめることとなりました。現在、京や富岳などのスーパーコンピュータの重要な利用分野の一つにあげられるIn Silico創薬の原点に触れることでその後の研究生活が変わったのです。
今から思うに、約2年間という長い期間にわたり、日本の生活環境に左右されない離れた場所で、一流の人材との交流の中で新しい事柄に触れ強い刺激をうけて、そしてゆっくりと考える時間が持てたがためにできた行動であったと考えています。三田学園の生徒の皆さんには今後の生活の中で海外に臆することなくチャレンジしてもらいたいと考えています。私のチューリッヒでの経験は35歳から36歳の時とだいぶ人生も中盤にかかってからの時期でした。高校生、大学生など感受性のより高い時期に、自分でしっかりと考えた目的を持ち、目標を定め、おこたりなく準備を重ねたうえで短期・長期の留学経験を持つことは強い刺激と貴重な経験が得られ、その後の人生をより豊かなものへと導いてくれるものと確信しています。今後、三田学園では国際化に向けた取り組みを強化し、皆さんのチャレンジを支援してゆきたいと考えています。